かぴばら先生は語る

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毎日を本とのおしゃべりで費やしておりますわたくしが今迄の読書体験で「これはイイ!」と感じた作品を紹介していきます。

芥川賞受賞作、小山田浩子の現実世界と地続きの不思議世界「穴」をエセ評論してみる

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今回はネタバレ前提で色々書いていきたいと思います。

と云うか既読の方を想定している前提で書かれた文章だと思ってください。

主題になるようにエセ評論をしてみようかなと思います。

まあ、どこの馬の骨とも分からない奴が書く文章なので駄文であることは重々承知の上で読んでくださればと思います。

あらすじ

穴(新潮文庫)

穴(新潮文庫)

 

仕事を辞め、夫の田舎に移り住んだ私は、暑い夏の日、見たこともない黒い獣を追って、土手にあいた胸の深さの穴に落ちた。甘いお香の匂いが漂う世羅さん、庭の水撒きに励む寡黙な義祖父に、義兄を名乗る知らない男。出会う人々もどこか奇妙で、見慣れた日常は静かに異界の色を帯びる。芥川賞受賞の表題作に、農村の古民家で新生活を始めた友人夫婦との不思議な時を描く二編を収録。

エセ評論


主題作「穴」について述べていきたいと思う。

「穴」に登場する人物は以下の通り。

語り部の「私」、私の「夫」、夫の母「姑」、夫の父「義父」、夫の祖父「義祖父」、母屋の隣の「世羅さんの奥さん」、裏庭の堀立小屋に住んでいると云っている「義兄」

この物語のキーパーソンは「義兄」

この人物が何者だったのか最後まで明かされることはなった。

またもう一人のキーパーソンに「義祖父」を据える。

この義祖父が最後突然亡くなることによってそれぞれ登場人物は心情変化していき物語が締めくくられる。

と云うことでこの二人に注意しながらまず最初に今回の語り部「私」について推理していきたいと思う。

この「私」と云う人物の心情が正直終始曖昧だった。

カフカの「変身」の様に出来事を単純に事実として捉えている訳ではない。

云々がうるさいだの云々に対して申し訳が立たないだの感情と云うものはある様だ。

ではなぜこの小説の語り部の文章はとても胡乱なのか?

「私」と云う存在自体が恣意的であるのだと思う。

言葉とは恣意的だ。ならば文章も恣意的なのである。その上で語り部自身が恣意性に富んだ事によってこの小説の空気は一貫して写実的でありながら曖昧な雰囲気と云う不思議なテイストになっているのだと推察できる。

どの様に「私」が恣意性に富んだ人物だと推定したのか説明する。

最初の場面からそれは如実であった。

夫が転勤になり引っ越すことになった。その候補として夫の実家の隣にある一戸建てに引っ越すか、と云う流れになるが「私」はそれに対して多少思案するものの結局は実家の隣に引っ越す事になっておりそこに恣意的である証拠としては十分である。

又、実家の隣に引っ越す当日になったとき様々な事を「姑」が事前に用意していてくれ、それももちろん承認。それ以外にも台所周りの冷蔵庫などの設置場所に関しても「姑」が出しゃばり、それに関しても「私」は頭では疑問に思いながら行動ではこれまた恣意的であり設置場所はすべて「姑」任せであった。

「姑」からのお使いでお金が足りず後日「姑」がお金を返しに来た時も恣意性が如実に表れていた。

「姑」は何を勘違いしたのか返金する額を間違えた。二万四千円足りなかったのを「姑」は四千円返してきた。この場面は「姑」への嫌悪感を感じるのは勿論だがそれ以外にもやはり「私」が恣意的である事実が述べられている。

二万円と云う差は決して小さいものではない。ましてや「私」は無職である。金銭感覚としては敏感になっているはずだ。その上で「私」は新札の四千円を受け取り硬直しながらも結局はそれを受け入れた。

これは紛うことなき恣意性の証左である。

以上のことを鑑みれば「私」と云う人物が恣意性に富んだ人物であることは自明である。

よってこの小説の空気感がどこか不思議である一旦はこの「私」の恣意性が関連していることが証明出来るのではないだろうか。

しかしそれだけではこの空気感をすべて説明することはできない。ではそれ以外の要素とは何か?

それは何と云っても「黒い獣」である。

最終的にこの獣が何の動物であったかは藪の中と云った感じに答えは出なかったがこの物語のターニングポイントで必ず登場してきたのがこの「黒い獣」である。

そして表題にもあるように「穴」は「黒い獣」が掘ったものだと「義兄」は作中述べている。

至る所に穴が点在している。「私」は運悪くコンビニに行く途中でその穴にはまってしまう。

一見物語のなにに関わってくるのか分からないこの「穴」

正直「黒い獣」に関しても物語の何に関わっているのか明確には述べておらず終始わからずじまいであった。

ならば読者はそれを考えなければいけない。

この「穴」と「黒い獣」は物語の何に関係性を持っているのか。

ここでもう一人の登場人物を据えると「義祖父」が関わってくる。

義祖父は毎日庭の水撒きに精を出す謎の老人である。「私」が声をかけても声を出さずに笑みを向けてくるだけである。果たして本当に「義祖父」は「私」の声が聞こえていなかったのか、そこにも論争の価値はあると思うが今回はこの「義祖父」が最後夜中に独り外に出て穴にはまってしまうと云うところにこの物語の何かしらの意味があったのだと私は推理する。

私はその現場に「義兄」と居合わせるとなぜか隣の「穴」に入ることになる。

何故此処で「穴」に入ったのか正直私の脳の限界数値を優に超えた不可解な行動であるのでこれに関してはまったくもって意味が分からないとしか云いようが無いのだがここで重要なのはこの小説内で初めて「私」以外の人物が「穴」に入ったという点が物語を推察する上で肝要なのではないかと思う。

ここで「義祖父」も「私」同様の心情を所持していたのではないか。

「義祖父」も同じく恣意的であったのか?

しかしそれは云い難い。「義祖父」は決まって水撒きをする。雨の日にもだ。

そう云った自身の中で決定した規則性の中で生きてきた人物が「義祖父」でありそれは恣意性の真反対の位置に存在する。

しかし四字熟語にもあるように「表裏一体」と云う言葉があり、それを鑑みたうえで「義祖父」は物語を通して変化、成長していたのではないか。そしてついに表の存在だった「義祖父」は裏に近づき「私」に近づいたのである。

対して「私」は「義祖父」とは真逆の方向に変化、成長したと考えられる。つまり恣意性からの脱却である。

最終的にコンビニの職に就く「私」と云うラストはその成長を表した象徴的なシーンであったと考えられる。

帰する所、「義祖父」と「私」が両者「穴」に入った場面はちょうど二人の表裏が逆転したポイントであると考えられる。

だからその後「義祖父」はすぐに亡くなることになる。では、なぜ「私」は恣意的であったときに「義祖父」の様に身に危険がおよばなかったのかと聞かれればそれは簡単な話で歳の問題に直結する。

単純な話「私」には「黒い獣」や「義兄」、「穴」の存在に耐えれる体力があったまでである。その点「義祖父」は歳を老い過ぎており存在に耐えれる体力が不足していた。

以上のことから鑑みれば義祖父が死んだ原因が少なからず分かってくるのではないかと思う。

しかしこれは私の主観的飛躍のある推察から基づいたものであり反論は重々承知の上である。

それ以外にも多くの謎がはらんでいるこの小説。(「義兄」とか「子どもたち」の存在とか)

唯一断言できるのはこの小説が摩訶不思議であると云うことである。

様々な推論が飛び交うであろう。どれもが正しく、どれもが間違っているのであろう。

答えは帰結しないからこそ答えなのである。

以上で私のエセ評論と云うか推察は終わりにさせていただく。

と云うかもう書くのがだらけてきたのでやめる。

最後に


もうめちゃくちゃです。書きたいことを書いただけなのでもう仕方ないです。

更新頻度がだだ下がっています。

上げていきたいです。

それでは今回はここまで(^_^)/~

穴(新潮文庫)

穴(新潮文庫)

 
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