【おすすめミステリー】西尾維新『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』京都が舞台のミステリー【戯言シリーズ】
愛の変奏曲であり、賛美歌である。
今回紹介する『クビシメロマンチスト』は「戯言シリーズ」の第二作という立ち位置ながらに、この作品単独でも成立する力を有している。
この作品は異常である。その異常さは前作を超える展開を持ち合わせている。
過去に前作である『クビキリサイクル』について記事を書いていた。
kapibarasensei.hateblo.jp
この処女作に関しても、まさしく西尾維新と言った感じの作品で、ミステリーとしても中々面白いカタチになっている。
また、処女作を皮切りにシリーズ化し、先述した「戯言シリーズ」として西尾維新の代表作の一つにまでなった。
「戯言シリーズ」は全6タイトル、9巻、外伝の「人間シリーズ」などを合わせれば数多くのシリーズ規模になっている。
「戯言シリーズ」はそれぞれ一冊ごとに個性豊かな物語を紡いでいる。
当初はミステリーの体裁をとっていたシリーズなのだが、巻を追うごとに推理小説要素は薄れていき、全く別ジャンルの小説への変容を見せている稀有なシリーズでもある。
そんな数多く、多種多様な作品が存在する「戯言シリーズ」の中で一番の傑作は個人的に『クビシメロマンチスト』だと思っている。
西尾維新はデビュー当時「京都の二十歳」として話題を呼んだ。
西尾維新の青春は京都を舞台にしており、『クビシメロマンチスト』ではその京都を舞台にミステリーを繰り広げている。
京都の雰囲気は全く独特で、哀愁を醸し出す、京都と言うだけでワクワクする舞台装置なのである。
今回の『クビシメロマンチスト』ではそれら良さを集約した素晴らしいミステリーとして成立させ、ライトノベルとしても読みやすい体裁になっている。
では、そんな『クビシメロマンチスト』を見ていきたいと思う。
西尾維新『クビシメロマンチスト』
人を愛することは容易いが、人を愛し続けることは難しい。人を殺すことは容易くとも、人を殺し続けることが難しいように。生来の性質としか言えないだろう、どのような状況であれ真実から目を逸らすことができず、ついに欺瞞なる概念を知ることなくこの歳まで生きてきてしまった誠実な正直者、つまりこのぼくは、五月、零崎人識という名前の殺人鬼と遭遇することになった。それは唐突な出会いであり、また必然的な出会いでもあった。そいつは刃物のような意志であり、刃物のような力学であり、そして刃物のような戯言だった。その一方で、ぼくは大学のクラスメイトとちょっとした交流をすることになるのだが、まあそれについてはなんというのだろう、どこから話していいものかわからない。ほら、やっぱり、人として嘘をつくわけにはいかないし―戯言シリーズ第二弾。
主人公であり、語り部である「ぼく」はクラスメイトの葵井巫女子(あおいい みここ)に親友の誕生日パーティーに招待される。
それと同じくして「ぼく」は京都を震撼させる連続殺人鬼、零崎人識(ぜろざき ひとしき)と邂逅する。
「ぼく」はその後、渋々ながらにくだんの誕生日パーティーに参加する。そこには葵井を含めた4人が居た。
「ぼく」は4人と交流し、それなりに楽しい時間を過ごした。
しかし翌日、警察が「ぼく」のところに訪れて、昨日のパーティーの主役でもあった江本智恵(えもと ともえ)が何者かによって殺害されたことを伝えられる。
「ぼく」はその殺人事件になにやら思うところがあるらしく、零崎とともに事件について調べていくことになった。
後味が最悪の作品としても有名で、しかして本格ミステリーとしては想像以上にしっかりとしている作品としても有名。
西尾維新の最高傑作と、今でも議論が絶えない傑作である。
昨今の西尾維新の作品は正直、ミステリーとしては、なんかな……、と思っている。
『掟上今日子の備忘録』ではライトなミステリーも描いているが、もっと本格的な、けれどやはり読みやすい、となれば『クビシメロマンチスト』はおすすめである。
アニメ化で人気を博した「物語シリーズ」などの原点と言って過言ではない作品なので、西尾維新で何の作品を読もうか、と言う人にはまず最初に「戯言シリーズ」の『クビキリサイクル』と『クビシメロマンチスト』を。
時系列的には『クビキリサイクル』が始まりだが、それぞれに事件が完結しており、登場人物もほとんど一新されている。
どちらから読んでも差し支えない作品だ。
読んだ感想
西尾維新はこの作品を3日で書き上げたらしい。
それが頷けるほどに勢いのある作品に仕上がっている。
個人的に西尾維新の作風は独特の語り口調や独特の登場人物によって形成される、普遍を行かず、我流を目指している、と勝手に解釈している。
その作風に賛否はあるだろうが、私はそういった作風をまず最初に確立したことに栄誉があると考えている。
これはライトノベルを読んでいてよく感じるのだが、西尾維新らしい文章を散見することがしばしばある。
それはつまり西尾維新の影響力でもあるし、それほどに受け入れられている証左なのである。
しかしてこの『クビシメロマンチスト』では今よりも鳴りを潜めている。
当時の他作品と比べれば確かに独特の文章かもしれないが、やはり現在の西尾維新よりはその成分が薄いと思う。
だからこそ万人に読みやすいとも思うし、だからこそ若かりし頃の西尾維新の狂気的で激しい部分を感じることが出来ると思う。
内容は「愛」について、そして「狂気」について。
純粋だと思っていた「愛」はいつしか自分でも分からないうちに「狂気」へと変貌してしまっているかもしれない。
また探偵役である「ぼく」と行動を共にする相手、つまりワトソン的役回りが、副題にも出ている零崎という殺人鬼なのである。
この組み合わせが一見してアンバランスのように見えて、結構気の合う二人なのだが、ここで殺人鬼を登場させることに大きな意味があるのではないかと思っている。
つまりは殺人欲求、または「人殺しの容認」の問いである。
「ぼく」は零崎に対して「そこに鏡があった」、零崎は「ぼく」に対して「そっくりさん」と呼んでいる。
しかして零崎の「殺人は許容できるか?」という問いに対しては、
「許すだの許さないだの、そういう問題じゃない。許容云々以前の問題なんだよ、それは。人殺しは最悪だ。断言しよう。人を殺したいという気持ちは史上最低の劣情だ。他人の死を望み祈り願い念じる行為は、どうやっても救いようのない悪意だ。なぜならそれは償えない罪だから。謝罪も贖罪もできない罪悪に、許容も何もへったくれも、そんなことはぼくの知ったことじゃないね」
以上の答を零崎に言っている。
しかしてその最悪の殺人を行う零崎には共感している部分を見出している。
「ぼく」も含めて、いや、「ぼく」を中心に作品中の登場人物は狂気的である。
どこかネジが外れている。
普通では語れない。
それが『クビシメロマンチスト』である。
最後に
今回は『クビシメロマンチスト』
京都が舞台というのはそれだけで価値が付与される魔法がある。
そういう点では森見登美彦とかは最強だ。
今度、京都を舞台にした作品群を紹介したいと思う。
いつになるかは分からないが……
それまでにいろいろと京都が舞台の小説を読みたいと思う。
それではこの辺で。